2009年5月29日

09_5のマーケティング部会報告 

コンサルタントのためのマーケティング戦略
マーケティング部会長  中川 嘉夫

はじめに
09年度第1回目のマーケティング部会は、メンバー登録制という新制度の下、5月27日にコンサルタントのためのマーケティング戦略「コストをかけずに効率よく顧客を増やす」にはというテーマで開催しました。
 登録会員は10名(うち2名はMTCA非会員)、出席5名で開催しました。

 私(中川)は、61歳の時に経営コンサルタント事務所・セイム研究所を開設しましたが、この10年間で最も多く相談を受けたのが今日のテーマである「コストをかけずに効率よく顧客(売上)を増やすにはどうすればよいか」ということです。
 私は、マーケティング戦略の基本である「4PとTCP」をフレームワークとして、その回答を考えます。

1.4PとTCP
4Pとは、Product(商品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(促進)です。
 マスマーケティング時代の4Pは
●いかに大量に作るか
●いかに安く提供するか
●いかに多くのチャネルを作るか
●いかに多くの人に情報を届けるか
 という視点でマーケティング戦略を策定していましたが、消費の多様化と技術の進歩により
 ●規格量産品では顧客は満足しなくなった
 ●模倣品・類似品がすぐに登場し、競争力のサイクルが短くなった
また、インターネットの普及と情報武装化の進展で
 ●生産者と消費者が直結し卸売りの中抜き現象が起こる
 ●顧客が情報武装化し、「刺激=反応モデル」に基づく広告がかつてのように効かなくなったこと等により、現代マーケティングの4Pは次のように変化しています。
●顧客のニーズに適合した商品を提供する
●顧客の求める価値に合った価格を設定する
●顧客のニーズにあった販売チャネルを提供する
●顧客のニーズに適合した情報を提供する

そしてマーケティング戦略は、プロダクトアウト(この商品を買ってくれるのは誰だ)という視点から、カストマーイン(この顧客の欲しい商品は何だ)という視点に変化しました。

そこで重要になるのが、TCPです。
● Target:売りたい人・買ってくれるであろう人を設定する。
● Position:ターゲットのニーズを基に、他商品との違いをハッキリさせる。
● Concept:他商品との違いとターゲットを踏まえ、わかりやすい商品の性格設定を行う。

   (研究会では、事例紹介やworkshopを交えて詳しく説明)

事例研究 .株式会社脇木工のマーケティング戦略
岡山県久米郡で、1950年7月に設立した家具・インテリア商品製造販売業者。
資本 金1000万円、従業員30人の小さな会社であるが、明快な経営ビジョンとマーケティング戦略のもとに、高収益を確保している。
●商品戦略 
 ターゲット: 20代の女性や新婚の若いカップル
 ニーズ把握:テストマーケティング
 コンセプト:若い女性の部屋の雰囲気を作る家具ブランドイメージの確立
●価格戦略
 価値重視の価格設定
 低コストで一定品質の商品à消費者に価値を提供
 値引きをしない-à適正な価格設定
●流通戦略
 古い体質の業界(卸)からの脱出
 独自の店舗展開-à明快な店舗コンセプト
●販促戦略
 パブリシティ
  岩立道子氏が雑誌に取り上げてくれた。
  休日に放映されるTBS系のバラエティ番組で放映
 東京にMOMO HOUSEのショールームを作る

2.中小企業のマーケティング戦略

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3.顧客マネジメントの2つの法則
パレートの法則とロングテールの法則
パレートの法則
 一般的に、ある特定の分野における売り上げは、上位の20%が全体の80%を占めるというに従っているとされている。
 今までのリアル店舗では、在庫の制限などで、この上位20%に当たる商品を多く揃えなければならず、その他(80%)は軽視されることが多かった。

ロングテールの法則
 バーチャル店舗では在庫や物流にかかるコストが従来の小売店と比べて遥かに少ないので、今まで見過ごされてきたこの80%をビジネス上に組み込むことが可能になり、そこからの売り上げを集積すると上位20%の商品(あるいは顧客)の売上より多くなるという。

パレートの法則に基づくマーケティング
 顧客の勾配を高くする=生涯価値の獲得=奥行きを深くする=顧客深耕
ロングテールの法則に基づくマーケティング
 ニッチの顧客を獲得する=間口を広げる=顧客開拓

4.中小企業のITマーケティング
 Webの活用により、低コストで「間口を広めつつ奥行きを深めるマーケティング」を展開する。

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上の図がITマーケティングの体系です。
 6月以降のマーケティング研究会はこの体系に沿ってテーマを絞り込み、出来る限り外部の専門家を招聘して掘り下げていく予定です。

 次回は、6月24日(水) ㈱ファーストブランド 河本 扶美子社長に同社の「Webマーケティング」についてご紹介頂き、「顧客の間口を広げるためのマーケティング」としてWebをどう活用するかを研究します。

投稿者 mtcambrs : 17:39 | コメント (4)

2009年5月18日

オープンセミナーの報告 2009.5.12

2009年度第一回目のMTCAオープンセミナーは"額で見る"システム「オーデコ」の開発者・菅野米藏氏をお迎えして、5月12日、大阪市立総合生涯学習センター・第一研修室で開催されました。

参加申込みは、会員・会友 26名、一般 37名 計63名。数名の当日欠席がありましたが、目標の50名を上回る盛況でした。

「人間は情報取得の90%を目から得ています。視覚障害の人たちが、いかに大変な思いをしているか。その人たちに最先端の科学技術は何をしてきたか。何もしていないんじゃないか。それでいいのか。
視覚障害者の持っている能力にプラスの何かをあげたい。そういうものの開発を考えている」という菅野様の熱い思いを、司会の小池さんから紹介されてセミナーは始まりました。

講演の様子

Ⅰオーデコとは

1. AuxDecoオーデコ視覚代行システムと盲導犬
オーデコは盲導犬と同じように視覚障害者(特に全盲者)の単独外出を支援する道具
□ 盲導犬の不足を補完する
オーデコは全盲者の単独外出を支援するが危険な障害物は全盲者自身で判断する
□ 盲導犬のような優しさはないが、その代わり毎日のお世話は不要
盲導犬育成費用に比べて1/3以下の費用
□ 盲導犬にないプラスα
手や白杖で触れないものが判ります(遠くの建物、大きな動物、水槽の魚、飛行機?)
練習によって墨字も読める
(注)オーデコは白杖歩行を前提として安全確認を補完する

2. AuxDecoオーデコ視覚代行システムの特長
世界で初めての『額で"見る"』視覚代行システム! 額の触覚を有効活用

オーデコの特徴No Touch (触ることなく)
全盲の方が、対象物の形状を把握する手段は、その対象物に触るしか方法がなかったが、オーデコを使用すれば、対象物に一切触れることなく、形状やその背景まで認識することができる

No Surgery (手術不要で)
オーデコを使用するために外科的な手術は一切不要。オーデコは額に装着された触覚ディスプレイを介して、カメラでとらえた映像をリアルタイムで電気刺激に変換し額の触覚に伝達する。

Stylish Life (ファッショナブルに)
無骨な装置を身にまとう必要はなく、一見、ごく普通のサングラスとヘアバンドを装着しているようにしか見えない。小型コンピューターは、バックに入れたり、腰のベルトに装着できる。
商品モデルは更に進化してサングラスも必要なくなる。

3. AuxDecoオーデコ視覚代行システムの基礎技術
カメラを内臓したヘッドバンドを額に取り付ける。カメラの映像はコンピュータで画像処理し、輪郭だけを取り出した映像を電気刺激にして表示する。
額に電気刺激を表示するのは、縦16横32、合計512の電極板。この電極板が、輪郭を映像として浮かび上がらせる。

オーデコの認識プロセス オーデコの外観

Ⅱオーデコの体験

 一般参加の視覚障害の方に体験していただきました。
 このシステムを使いこなすためには、少なくとも20時間程度のトレーニングが必要だそうですが、体験していただいた方は、全くぶっつけ本番ながら、机と机の間の狭い通路をスイスイと歩かれる姿に一同感嘆の声をあげました。

オーデコの体験

7時50分、予定通りセミナー第1部は終了しましたが、参加者にはまだまだ聞きたいことがあった様子でセミナー終了後も菅野氏を囲んで名刺交換の輪が出来ていました。
翌日、「色々とお伺いしたい事もあるので、また改めて菅野様へご連絡させて頂こうかと考えております」、「MTCAはこんな高尚な立派な勉強会をしているのかと驚きました」、「色々と興味のあるセミナーに出席させて頂きたく思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます」など、セミナーの成功を裏付けるメールも頂きました。
また菅野様から「皆様の交流の真髄を垣間見たようで本当に羨ましく存じました。どうか皆様によろしくお伝え下さい。今後共ご健康には十分に留意されお元気で貴会がますます発展されますようご祈念申し上げます」というメッセージもいただきました。

資料(PDF形式)のダウンロード(約750KB)

研修委員長 中川 嘉夫 記

投稿者 mtcambrs : 10:23 | コメント (0)

2009年5月15日

定例会後記(2009年5月)

2009年5月の総合研修会は12日(火)に公開セミナーとして開催されました(下記参照)。参加者人数は、 会員22名、会員同伴者4名、一般33名  会員・会友26名、一般37名、計63名(5/18の報告より修正)でした。

以下は案内のパンフレットより

テレビ大阪「世界を変える100人の日本人」で紹介された話題の画期的新商品
"額で見る"システム「オーデコ」
開発者・菅野米藏氏が語る「開発秘話と北欧の福祉事情」

主催:経営技術コンサルタント協会
協賛:社団法人 老人文化会議

第一部 (18時15分~19時50分)
"額で見る"システム「オーデコ」の開発秘話と北欧の福祉事情
講師:株式会社アイプラスプラス 代表 菅野米藏氏

第二部 (20時00分~20時20分)
北欧への誘い
今年8月開催の「MTCA北欧3国研修旅行」の案内

"額で見る"システム「オーデコ」とは
"額で見る"システム「オーデコ」は、「視覚障害者でも安心して、より安全に行動することができるように」との思いをこめて、菅野米藏氏が、東京大学大学院教授・舘博士の研究室と共同研究を続け、効果的かつ快適な電気刺激の生成を追及しながら、額触覚に電気刺激で提示する実用化モデルとして開発されました。
"ミラクル・テクノロジー"と評した外国メディアもあり、日本でもテレビが次々と取り上げ始めた"触らずにモノが認識できる"日本発の技術が、すでに国内外で大きな反響を巻き起こしています。

事務局 向出康志

投稿者 mtcambrs : 11:01 | コメント (0)

2009年5月14日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 4-2 世界遺産・イスタンブールの歴史地区

4-2 世界遺産・イスタンブールの歴史地区

 紀元前7世紀、ギリシャの植民地として誕生したこの町は、アケメネス朝ペルシャ、マケドニアのアレクサンドロス大王の支配を受けた後、2世紀末に古代ローマの領土となる。
 330年、ローマ帝国コンスタンティヌスⅠ世は、ビザンティウムと呼ばれていたこの都市に、「キリスト教による新都」として帝国の首都を遷した。
 ローマ式の都市計画に基づき、堅牢な城壁や宮殿、およそ5kmもある直線の大通りもつくられ、交易で潤ったこの新都は、もとの都を凌ぐ「新しいローマ」として発展を遂げる。
 395年、ローマ帝国は東西に分裂し、東ローマはビザンチン帝国となり、6世紀に黄金期を迎えた。
 人口は50万に達し、皇帝の熱い庇護を受けた学者や芸術家が盛んに活躍し、文化の一大中心地としての地位を確立した。その潮流は、かつてビザンティウムとよばれていた名にちなんでビザンチン文化といわれ帝国全土に広まった。
 15世紀になるとオスマン帝国の都となり、ギリシャ語で「町へ」を意味する「イスタンブール」と呼ばれるようになった。
 ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都として繁栄した「イスタンブール」には、博物館、教会、宮殿、偉大なるモスク、バザールなど、訪れる人々を魅了する歴史的建造物が数多く残されている。

スルタンアフメト・モスク(ブルー・モスク)
 オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。
 モスクには必ず「ミナレット」と呼ばれる細長い尖った塔が建ち、その本数や高さは権力の象徴といわれているが、このモスクには世界で唯一優美な6本のミナレットがある。
 オスマン朝建築の代表的建造物であり世界一美しいモスクとして有名。
 直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。

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    ブルーモスクの外観

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    ブルーモスクの内部

アヤソフィア大聖堂
「神の知恵」を意味するアヤソフィア。
 建物の大きさは、縦77m、横71mで、高さは大ドームが56mあり、ロー マのサン・ピエトロ、ミラノのドゥオモ、ロンドンのセント・ポールに次いで 世界で4番目の大きさを誇る。

 コンスタンティヌスⅠ世が理想とした「キリスト教による新都」の構想を受け継ぎ、しばしばビザンチン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。
 
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北東面と南西面に設けられた窓から光りが差し込み「光りの聖堂」とも呼ばれている


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モザイク画「キリストを膝に抱く聖母マリア」 


トプカプ宮殿
 15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。
 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されていて、素晴らしい宝物を見ることができたが、残念ながら館内は全て撮影禁止だった。

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地下宮殿
「地下宮殿」を意味するイェレバタン・サラユ という名前で呼ばれている大貯水池。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設されたもの。
かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルム(古代ローマ都市の公共広場)のような空間があり、裁判や商業活動に利用されていたが、ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、この貯水槽を設置した。

 貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールト(かまぼこ型の天井)を支える。
これによって78,000m³の水を貯えることができる。円柱のうち、98本は5世紀に流行したアカンサス柱頭を備えている。
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グランド・バザール 
 大規模なバザールがあちこちにあり、観光の一つの魅力となっている。
旧市街のど真ん中にあるグランド・バザール は、15世紀半ばにメフメット II 世が開いた伝統ある市場だ。

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ドルマバフチェ宮殿
 新市街の北東郊外ベシクタシュ地区のボスポラス海峡に面した埋立地に位置する。ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」と言う意味である。 
 イスタンブルを征服したオスマン帝国のメフメト2世によって造成された庭園に、1853年にアブデュルメジト1世の命によって宮廷に仕えるアルメニア人建築家が設計、従来あった木造宮殿を取り壊して建てられ、トプカプ宮殿にかわってオスマン帝国末期に王宮として利用された。
 ヨーロッパから取り入れたバロック様式と伝統のオスマン様式を折衷した豪華な宮殿で、外観や装飾は近代西洋風であるが、建物の内部は男性向けの空間と女性のみの空間(ハレム)に二分割され、ハレムには多くの侍女や宦官も勤務した。ボスポラス海峡に向かう面は海側に門と桟エを備え、宮殿から公道に出ずに船でイスタンブル市内を自由に行き来できるようになっている。
 宮殿の面積は45,000m²で、285の部屋、46のホール、6の浴場(ハマム)、68のトイレがある。
 オスマン帝国の皇帝がいなくなった後も、政府の迎賓館として使われている。トルコ共和国の初期にはイスタンブルにおける大統領の執務所として用いられ、1938年に初代大統領ケマル・アタテュルクはこの宮殿で亡くなった。

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トラム体験乗車
トラムは旧市街を通り抜け、ガラタ橋を渡り新市街のカタバシまで続く。クラシックな電車の窓からの観光はなかなか趣があって楽しいものだ。
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スィルケジ駅
 東ローマ帝国からオスマントルコ、近代トルコと変遷する中を見つめてきたボスポラス海峡のヨーロッパ側の拠点・スィルケジにはアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」舞台となったスィルケジ駅がある。
 この駅に入る列車は全て行き止まり、つまりここは終着駅なのだ。
駅構内にはレストランがあり、窓から出入りする列車を眺めながらの食事は旅情たっぷりだ。
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投稿者 mtcambrs : 17:58 | コメント (0)

2009年5月12日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 4-1東西を結ぶ2つの海峡

第四章 世界遺産・イスタンブール

4-1 東西を結ぶ2つの海峡

 トルコ最大の都市・イスタンブールは、ボスポラス海峡をはさんでアジアとヨーロッパの境界に位置する。
 黒海からボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を経て、地中海に通じる海上交通の要衝として、古代より東西を結ぶ交易路が交錯し、文化の交流にも大きな役割を果たしてきた。
 ヨーロッパからみればオリエントの始まりであり、アジアからみればシルクロードの終点となり、世界の中心といわれる都市として発展した。
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ダーダネルス海峡
 トロイ戦争の舞台となったチャナッカレからダーダネルス海峡をイスタンブールへ向かう。
 アジア側にある都市チャナッカレに因んでチャナッカレ海峡とも呼ばれるこの海峡は、トルコの北西にあるエーゲ海とマルマラ海を結ぶ戦略的な要衝であった。
 ペルシア帝国のクセルクセス1世やマケドニアのアレクサンドロス大王は、それぞれ海峡の反対側に遠征するためにこの海峡を渡り、オスマン帝国のオルハン・ガーズィーがビザンツ帝国のヨハネス6世カンタクゼノス帝の要請を受けて初めてヨーロッパに渡ったのもこの海峡だ。
 のちにオスマン帝国はこの地で艦隊を創設し、帝国が東地中海の覇権を握る上でも、首都イスタンブルを南から防衛する上でも非常に重要な地となった。
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    チャナッカレの港


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    かもめが餌をもとめて飛び交う


ボスポラス海峡
 ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしい虻を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

 南北に細長く、北は黒海、南はマルマラ海で、長さは南北約30km、幅は最も狭い地点でわずか800m程。
両岸の全域はイスタンブル市の行政区内で、南側のマルマラ海への出口の西岸、金角湾との間の地がビュザンティオン、コンスタンティノポリスの故地であるイスタンブル旧市街である。

 イスタンブル市民の足として、両岸の各所に定期船の船着場がある他、1973年建設の第一ボスポラス大橋と1988年建設の第二ボスポラス橋が架けられている。また、2004年5月24日着工、2012年開通予定で、日本の大成建設グループにより全長13.6kmの海底トンネルの建設が進められている。

  ボスポラス海峡沿いには、オスマン帝国がコンスタンティノポリス征服の足がかりとして築いたルメリ・ヒサルの要塞や、ドルマバフチェ宮殿などのオスマン帝国の離宮、ベイレルベイ宮殿、クレリ海軍学校などの歴史的建造物が建ち並び、イスタンブルの旧市街から黒海の出口までクルージングする定期観光船は観光客で賑わっていた。

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   ボスポラス海峡クルージング   

投稿者 mtcambrs : 11:56 | コメント (1)

2009年5月 5日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 3-5 トロイ遺跡

3-5 トロイ遺跡

トロイの遺跡はエーゲ海北部の、ダーダネルス海峡に面したヒサルルクの丘に在る。
紀元前8世紀後半に古代ギリシアの詩人ホメロスによって書かれた長編叙事詩「イリアス」で語られている「トロイ戦争」の「木馬」で余りにも有名になった古代都市遺跡だ。 「トロイ戦争」とは、このトロイの地に栄えた都市国家・イリオスの王プリアモスの時代、イリオスとエーゲ海を隔てた宿命の敵であったギリシア連合軍(アカイア軍)との戦いを言う。


 トロイの遺跡は初期青銅器文明の紀元前3000年から、ローマ時代の初め(紀元前334年)まで、同じ場所で発展した都市遺跡だ。ダーダネルス海峡に面した地の利を生かし、エーゲ海や黒海の航路をおさえたトロイは、文明の交差点として長く繁栄をつづけ、地震や他民族の侵略のたびに新たな都市を築いた。人間はかつて町の在った跡を整地して、その上に新しい町を造る習性が有るそうだ。
 このトロイも従来の基礎の上に新都市を創ったため第Ⅰ市~第Ⅸ市の9つの層からなっている。
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 ホメロスが描いたトロイ戦争は第Ⅶ市(紀元前1275~1240年)」と言われているが、考古学的には、木馬どころかトロイ戦争(紀元前1200年頃)そのものが有ったのか、そして“トロイ人”とはどんな民族なのかも、いまだ解明されていない。

 トロイの実在を信じたシュリーマンは「トロイの財宝」に目が眩み、素人なので、闇雲に掘り進み、他の時代層を破壊してしまった。そして彼の手にした財宝は、エーゲ海交易の中心地として繁栄した「第Ⅱ市(紀元前2500~2200年)」時代の物で、その為に「第Ⅲ市」「第Ⅳ市」「第Ⅴ市」は崩され、その時代の出土品が極めて少なくなった。


◆トロイの木馬伝説
(写真の木馬は観光用に復製されたものです)
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 トロイの遺跡は、叙事詩「イーリアス」や映画「トロイのヘレン」等のイメージとはほど遠く、直径約600m程の小さな城塞で、それ程大きな物ではなく、しかも見所が石垣ばかりで、カメラマンにとっては極めて面白くない場所だった。
(この項の写真が少ないのはそのためです)

投稿者 mtcambrs : 15:46 | コメント (1)

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 3-4 アクロポリスの丘・ペルガモン遺跡

3-4 アクロポリスの丘・ペルガモン遺跡(3月22日撮影)
 ペルガモン(現在名:べルガマ) は、紀元前282年から、およそ150年の間、エーゲ海岸地方で繁栄した王国である。 ペルガモンは王国になる以前からアレキサンドロス大王やマケドニアの支配者の統治を受け、ヘレニズム文化を基盤に発展を続けた。その後、5代続いた王国はローマ帝国の自由都市としての立場となり、紀元3世紀頃まで繁栄を続けたが、ローマの弱体化とともに衰退した。


①アクロポリスの丘   
べルガマの街の北方にある標高335mのアクロポリスの頂上付近にはトラヤヌス神殿と大劇場が残されている。
純白のコリント式列柱とアーチが印象的なトラヤヌス神殿は、ローマ皇帝ハドリアノスが前皇帝であったトラヤヌスのために紀元2世紀半ばに建造したものである。
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   ◆トラヤヌス神殿


大劇場は丘の南西斜面に造られ、斜度は数ある古代遺跡の劇場の中でも一番急なもので、広い半円を確保できず高低差で収容人員をかせぎ、1万5000人が収容できた。

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   ◆大劇場


②  アクスレピオン
 アクロポリスから川を隔てた対岸の丘の頂上にローマ時代のアクスレピオン遺跡がある。
ここはギリシャ神話で医学の神と崇められた「アスクレピウス」に捧げられた当時の“医療センター”だ。
暗示による精神療法と投薬とリハビリ、そして観劇によるリラックスなど、当時の最先端の医療技術を集積した総合病院として、多くの病人たちを癒したといわれている。


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   ◆アスクレピオン神殿


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   ◆心理療法がおこなわれた治療所に通じる地下道


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   ◆リラックス療法のおこなわれた劇場


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中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 3-3 エフェソス遺跡

3-3 エフェソス遺跡(3月21日撮影)

エフェソス遺跡は、トルコ・エーゲ海沿岸で最も大きい都市イズミールから更に南方へ70kmのセルチェク郊外に残されたローマ時代の都市遺跡群である。
   列柱道路や大理石の全面舗装の大通りに代表される広く豪華な道路。
 当時の建築技術と芸術性の高さに賞賛を与えるべき建造物の一つと言える所蔵12万冊のセルシウス図書館。
 収容能力24,000席を誇る大野外劇場。市民のための施設である浴場や体育館、教会堂や音楽堂。
 複雑で精緻溢れる大理石装飾で満たされた数多くの大型建造物など、どれをとっても大規模で比較的良好な状態で保存され、  その規模の大きさは、エーゲ海沿岸地方で最大級と言われている。

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◆メインストリート

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  ◆セルシウス図書館

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  ◆大野外劇場

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  ◆ナイキ(勝利の女神)

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2009年5月 3日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 3-2 アフロディシアスとヒエラポリス

3-2 アフロディシアスとパムッカレ(3月20日撮影)

① アフロディシアス
 アフロディシアスは紀元前4世紀アレキサンダー大王が東方遠征で通ったいわゆるアレクサンドロス古道沿いの町、そして、ローマ時代にはオリエントとヨーロッパを結ぶシルクロード沿道の町であった。
 往時は荷物を駱駝の背にいっぱい積んだキャラバンで賑わっていたことと思われる。
エーゲ海の町エフェス(古代エフェソス)やイズミール(古代スミルナ)で商人は東方の珍品を売り、商売が終わるとこの町に逗留して疲れを癒し、再び東方への長途の旅へと出発したという。
 
 紀元前1世紀、ローマの将軍スラは、小アジアを征服した折、デルフィの神託に応え、アフロディーテに斧と金の冠を贈ったことから、この地をアフロディシアスと名付けたと言われている。
 のちにキリスト教が盛んになると、アフロディーテ神殿はキリスト教会となり、町の名もスタウロポリス(十字架の町)と改められ、十二世紀のセルジュークトルコの侵入により、アフロディシアスは急速に衰退していったという。
 ババ・ダーイ山の麓に位置しており、山の土が流れて遺跡をすっぽりと覆っていたため、紀元前1世紀から2世紀にかけて建造された劇場、オデオン、アフロディーテ神殿、競技場などが良好な保存状態で残っている。

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◆アゴラ(市場)

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   ◆野外劇場

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   ◆石壁のレリーフ

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   ◆アフロディーテ神殿


② ヒエラポリス-パムッカレ

「綿の城」を意味するパムッカレは、トルコ随一の温泉保養地として古代から親しまれてきた。
この地には、かつて栄華を極めた都市ヒエラポリスがあった。
紀元前2世紀頃、アナトリア北西部ニ栄えた古代王国ペルガモンの王エウメネス2世は、勢力を拡張するとともに国の守りを固める要塞都市を建設した。
そのひとつが、王国の伝説上の始祖の妃ヒエラの名を冠したとされる町、ヒエラポリスだ。
ヒエラポリスの温泉は、炭酸カルシウムを含んでいる。ヒエラポリスの高所に湧き出た温泉水は広い急斜面を流れ落ちながら四方八方に炭酸カルシウムをばらまき、岩肌に白い結晶を付着させた。
付着した白い結晶は長い年月を経て堆積し、崖のような台地の斜面に段々畑のように連なる約100個もの石灰棚を作りだした。
 その石灰棚の段丘上にはヒエラポリスの遺構が広がり、半円形のローマ劇場や凱旋門、浴場跡、共同墓地など、当時の栄華を偲ばせる。
 その壮大で幻想的な光景は、1988年、ヒエラポリス-パムッカレとして世界遺産の複合遺産に登録された。

 昔は温泉として観光客も石灰棚に入ることができたが、近年の乱開発により水量が減少したため、今では日替わりで部分的に水が流されている。

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     ◆ローマ劇場

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     ◆枯れた石灰棚

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     ◆夕日に染まる石灰棚

投稿者 mtcambrs : 17:32 | コメント (0)