2009年4月29日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 3-1 アンタルヤ

第三章 トルコの遺跡

3-1 アンタルヤ (3月18日撮影) 
アンタルヤは、地中海に面する人口100万の都市だ。
紀元前188年にペルガモン王朝のアッタロス2世によって発見され、自分の名前にちなんでアッタリアと名付けられた。

4世紀頃にはローマ人の植民地となり、その後はビザンチンとアラブ勢力との衝突の場となり街は衰退していった。
しかし、年間300 日も太陽の恵みを受けるこの地方は、日光浴や水泳、ウィンドサーフィン、水上スキー、セーリング、登山、洞窟探検などのスポーツ・リゾートとして人気を集め、今では年間に500万人もの観光客が訪れるトルコの一大リゾート地として発展した。

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130 年にハドリアヌス帝がアンタルヤのファセリスを訪れた際には、同帝をたたえて、コリント式円柱と美しく装飾された三つのアーチを持つ門が、町の城壁に作られた。この門に隣接する塔は、この街のシンボルとなっている。

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アンタルヤ近郊にはペルゲ、アスペンドス、シデといったトルコを代表するギリシャ、ローマ時代の数々の遺跡が点在し、紀元前に繁栄したことを物語っている。
紀元前12世紀に、北アナトリアからギリシャ人による大規模の移動が起こり、多くの移民は現在のアンタルヤの東にある平野へと定住した。この地は「部族の地」を意味するパンフィリアと呼ばれるようになり、ぺルガ、シリヨン、アスペンドス、シデの4つの都市が発展した。

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①シデの遺跡(3月18日撮影) 
トルコで最も有名な古代遺跡の一つに数えられるシデは、ザクロという意味の名前を持つ古代の港だった。
紀元前5世紀頃に植民地が建設され、2~3世紀に商業都市、特に奴隷売買の街として栄えた。
その後アラブ人や海賊達により街は破壊されたが、9世紀になりクレタ島からの移民者達により再建され、19世紀後半まで重要な都市のひとつとして栄えた。
 栄光ある歴史は永く忘れ去られていたが、神殿、劇場、大聖堂跡などが発掘され脚光を浴びた。
 いまこの街は古代遺跡と二つの砂浜をもつリゾートタウンとして、多くの観光客で賑わっている。
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 列柱のあるアーチの上に建てられた劇場跡(写真上)と、岬の先端にあるアポロン神殿を結ぶストリートには、海の見えるカフェやレストランがたくさんあり、細い通りに並んだ店では、皮製品や金細工などトルコの代表的な工芸品が売られている。
 アポロン神殿の建つ岬は、絶好の夕陽スポット(写真下)だが、残念ながら訪れた日は雲が厚く、1時間ねばったが夕陽は撮れなかった。

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 ②アスペンドス遺跡(3月19日撮影)
紀元前10世紀、ギリシャ時代からの歴史をもつ都市アスペンドス。
都市の遺跡は大部分が荒廃したままだが、ローマ時代に建造された野外円形劇場ほぼ完璧な状態で残っている

イオニア様式やコリント様式で飾られた舞台の壁も当時のまま。楽屋や付属建造物なども現存しており、古代の劇場の雰囲気をしのばせてくれる。
最大1万5,000人程度を収容できたというこの劇場は、現在も使われていて、毎夏、アスペンドス国際オペラ・バレエ・フェスティバルが開催される。

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③ ぺルゲ遺跡(3月19日撮影)
アンタルヤから約15キロのところに位置するペルゲは、アクロポリスの丘のふもとに野外劇場や競技場、浴場やアゴラ、列柱道路、教会、体育館などがひろがる典型的なギリシア植民地の都市遺跡だ。
 紀元前11世紀から8世紀にかけて、地中海を支配していた海賊から守るため海岸から20km内陸側にドーリア人によって造られたペルゲが最も栄えるのは紀元前2世紀のローマ帝国時代。
劇場のステージには見事な彫刻を施した大理石のレリーフがあり、両側にそびえ立つ2つの塔で守られた美しい門、かつてはモザイクで舗装され、たくさんの店が並んでいた列柱のある長い道、広いアゴラ(集会場)、公衆浴場や体育館が栄華のあとを物語る。

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           ◆大理石のレリーフ



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2009年4月26日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 2_3 カッパドキア②

第二章 ファインダーから覗いたトルコ
2_3 カッパドキア② 3月17日撮影

3月17日の朝、昨日とは打って変わった晴天で、カッパドキアの壮大な風景を空から観光する熱気球が数多くあがっていた。
数億年前に起きたエンジェルス山の噴火は、何層にも積み重なった地層をつくり、そこに雨や風が浸食し、奇妙な形のキノコ岩や何層ものカラフルな岩肌が象徴する不思議な風景を生んだ。

一方、岩の多いこの地域には畑にする土地が少ないため、住民は陶磁器や人形作りなどの手作業で生活を営まざるを得なかった。
そんな中で「世界一とも言われる手織り絨毯」が盛んになったという。

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◆デヴレント
ここは奇岩の景勝地だ。
2000万年前、ここは海だったという荒涼とした大地が続く。 この辺りの奇岩は動物などに似た形のおもしろい岩が点在する。その中でもいちばん有名な「ラクダ岩」。他にも、フクロウ、ナポレオンの帽子を思わせる岩など・・・・。

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◆カッパドキアの手織りじゅうたん
トルコ絨毯の特徴はダブルノットと呼ばれる二重結び。普通、地糸にひと絡げして編まれる毛がここではふた絡げされている。そのせいで100年経っても毛が抜けないのだ。そして使えば使っただけ、アンティークとしての価値が出てくる。

シルクの絨毯を織るのは、若い女性だ。
素早く鮮やかな手つきで糸を渡し、二重結びしてカットしていく。 シルクは目が細かく、織り上げるのに時間を要する為、視力があり、体力の備わった若い女性でないと織れないのだそうだ。
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羊の毛を染色せずに、黒い羊の毛、白い毛、茶色の毛を使用して模様を織りあげるこの地方独特の絨毯は、目にも優しく、素朴なウールのぬくもりがある。

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中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 2_2カッパドキア①

第二章 ファインダーから覗いたトルコ

2_2 カッパドキア① 3月16日撮影 
「美しい馬の地」を意味するカッパドキアは、標高1000mを超えるアナトリア高原中央部に、100km²近くにわたって岩石地帯が広がる台地だ。
キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観はまさに自然の驚異だ。


ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群は文化、自然の両者の価値を兼ね備えた複合遺産として世界遺産に登録されている。

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◆雪のカッパドキア
3月16日の朝、前夜来の雪はやんでいたが、街は一面の銀世界に包まれていた。

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◆ウチヒサールの要塞
ウチヒサール(3つの要塞という意味)は、カッパドキア地方で最も高いところに位置する村で、村の中央にそびえる大きな岩の要塞がシンボルとなっている。

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◆ギョレメ野外博物館
ギョレメ国立公園は3世紀半ば、ローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士たちが、カッパドキアに移り、柔らかい岩をくり抜いて住居や教会を作って共同生活を営んだ。
9世紀頃から次々と岩窟教会や修道院などを造りはじめ、約30の教会がギョレメの谷に集まった。今は野外博物館として保存・公開されている。

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◆フレスコ画
洞窟教会には、光がささないため当時のフレスコ画がそのまま残っている。
フレスコとは、砂と石灰を混ぜて作ったモルタルで壁を塗って、その上に水で溶いた顔料で絵を描く方法

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◆ゼルベの谷
パシャバー地区には有名な「キノコ岩」が立ち並び、煙突の形に似ているこれらの岩は中に妖精が住んでいるという言い伝えから「妖精の煙突」ともいわれてる。

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◆ローズバレー
砂の風紋のように見える岩石地帯は鉱物質を含んでいるため、夕陽を受けて谷全体が赤みを増す。

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◆ベリーダンス
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ち、「オスマン帝国のラカス」から世界中に知られるオリエンタルダンスへと発展を遂げた。
派手なコスチュームで、中東独特のエキゾチックな音楽に合わせて踊るベリーダンスショー。
「これを見ずしてトルコを語るなかれ」という人もいるらしい。
トルコ語で腰は「bel」。その名の通りかなり腰を使う踊りだ。腰の振りが女性の性的な興奮を表し,それが子孫繁栄につながるという。
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2009年4月24日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 2_1アンカラ

第二章 ファインダーから覗いたトルコ
2_1 アンカラ (3.15撮影)
アナトリア高原の中央部に位置する、トルコ政治の中心都市。ガラティア人が占拠した時代やローマ時代は、交易の中継地として繁栄したが、オスマン時代には交易路が変ったために衰退した。
そして、1923年、新生トルコ共和国の首都に定められた時には、人口は3万人足らずであった。
それが、今では人口350万人を超す、トルコ第2の大都市に発展した。

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アタテュルク廟
1938年のケマルの死と同時に、アンカラ市街南東の丘の上に巨大な廟が建設され、ケマルの棺が安置された。
ここには、ケマル・アタテュルクの墓のほか、ケマルが生前に愛用していた品々や各国から贈られた品々などを展示した博物館が併設されている。博物館にはケマルが活躍したガリポリの戦いや、サカリヤ川の戦いを再現したコーナーもあり、初代大統領の数々の業績を誇っている。


   ◆アタテュルク廟の参道
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   ◆アタテュルクの棺が安置されている廟
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   ◆廟の前で衛兵の交代式が行われていた
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アナトリア考古博物館
アナトリア地方で出土した旧石器時代からローマ時代にかけての素晴らしい遺物を展示する博物館で、ことにヒッタイト時代のコレクションが素晴らしい。回廊の中央ホールに展示されたスフィンクスや牛、鹿などの動物をかたどった見事な石像やレリーフ。紀元前7世紀のハタルフユックの遺跡や新石器時代のハラジル遺跡の出土品、アッシリア植民地時代の土器、フリギアの金属細工、ウラルトゥの青銅品、ギリシア、ローマ時代の装飾品などさまざまな時代の一級の出土品が並ぶ。


   ◆博物館の玄関前にも出土品が展示されている
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   ◆見事なレリーフが沢山展示されている
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旧市街・アンカラ城塞付近
アンカラで最も古い建造物の一つと言われるアンカラ城は、そもそもガラティア人によって建築が始められ、ローマ帝国によって完成された後、 7 世紀にアラブの侵攻に備えビザンツ帝国によって修復、増築された。現在、外郭の城門、城壁、塔が残っている。

           ◆城門の跡                 ◆塔屋を利用したレストラン 
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           ◆旧市街の絨毯屋      
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2009年4月23日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 1_3 トルコの食事

<トルコ料理>
中華料理、フランス料理と並んで世界三大料理の一つに数えられるトルコ料理。
有名なのはレンズ豆(形がレンズに似てまるく薄い豆)のスープ、 「ケバブ」と呼ばれる焼肉料理、トルコビール、国民酒のラク、野菜をふんだんにつかった前菜、パンやビザだ。
トルコ料理が美味しいのはその食材にあるようだ。
トルコは、GDPの約15%、全就業者の約40%を農業が占めるという農業国だ。
オリーブは1億2千万本あり、イチジク、干しブドウ、アンズ、へーゼルナッツ、レンズマメは世界一を誇る生産量。
ガイドの話では食料の自給率は100%という。

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<ラクというお酒とトルコビール>
トルコでは「ラク」という蒸留酒が庶民のお酒として親しまれている
アルコール分は45度~50度と高いため、水割りにして飲むことが多いそうだ。
透明のラクに水を加えると乳白色に変わるので別名「ライオンのミルク」とも呼ばれる。

カッパドキアのレストランで、5:5の水割りにして飲んでみた。
どこかで飲んだような気がしたので、「何で作った酒?」と、ガイドに聞くと「ぶどうの蒸留酒」だという。
思い出した。これは去年、チリで飲んだ「ピスコ」だ。

トルコでビールを頼むと、ほとんど「EFES」というブランドだった。
雑味のないすっきりした味で、苦みはやや少なめ。いつも家で飲んでいる「円熟」に近い味だ。
値段は、350ccのグラスで5リラから7リラくらい。
日本円で300円から400円(09.3月のレートは1リラ60円) だから物価の安いトルコにしてみればかなり高い。
(1年前のレートで換算すれば450~630円)

<ケバブという焼肉>
旅行中は毎日のようにケバブを食べた。
ケバプとは、「焼いた」、「ローストした」という意味。
ケバプの前に焼くものの名前や焼く方法を付け、xxxケバブ、△△△ケバブと呼ぶ、それがそのまま料理の名前となっている。
トルコでは豚は食べないので、ほとんどが羊かチキンを使ったものだった。

<なぜブタをたべないのか?>
 これにはいろんな説がある。
「イスラム教徒の国だから」というのが最もポピュラーな理由だが、現在イスラムの規律に則って生活している人はトルコ人の2割程度にすぎないし、イスラムの戒律が厳しくないのに豚を食べる人はいないそうだ。
 そういえば、トルコ航空の機内食には「豚肉は使用していません」という説明書がついていた。  
牛やヤギは反芻(はんすう)する動物で、肉がいたみにくいが、「豚は反芻しないので肉が腐りやすいから食べない」という説もあるが、大多数のトルコ人にとっては、豚肉はやっぱり「臭いから食べたくない」「食べたことがないものは食べたくない」肉なのだろう。

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投稿者 mtcambrs : 14:30 | コメント (0)

2009年4月21日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 1_2トルコの首都

1_2.トルコの首都
 トルコの首都はイスタンブールと思っている人が多い(じつは、私もトルコ旅行を計画するまではそう思っていた)が、西アジアの一部の、広大なアナトリア半島の中心部に位置するアンカラがトルコの首都だ。
 人口370万人、イスタンブールの半分にも満たないこの都市がなぜ首都になったのか。
 その歴史を紐解いてみた。
 13世紀末、アナトリアの片隅に生まれたひとりのトルコ人が興したオスマン朝は、小アジア北西部の小君侯国にすぎなかったが、1453年には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼしコンスタンティノープルを占領、イスタンブールと改名して首都とした。
イスタンブールが首都と思っている人が多いのはそのためか。

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..........オスマン帝国時代の首都・イスタンブール(09.3.24撮影)...........

 最盛期には、東西はアゼルバイジャン(カスピ海の西南岸に位置する西アジアの一地方)からモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る広大な領域に及び、イスラム教正統派の盟主として、西アジア一帯(イスラム世界)を支配した王朝として1922年まで存続した。
しかし、18世紀頃から欧州列強の力が拡大するとともに圧迫され衰退。その領土は蚕食されて急速に縮小しはじめた。
 挽回を図ったオスマン朝は、対ロシア攻略を主目的に第一次大戦に参戦したものの敗戦により帝国は事実上解体した。

 この戦いにオスマン軍の師団長として参戦したムスタファ・ケマルは、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちと共にアンカラに抵抗政権(アンカラ政権)を樹立し、 現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。
1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。
アンカラが首都となった由縁である。

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..........トルコ共和国の首都・アンカラ(09.3.15撮影)...........
 

トルコ共和国の初代大統領となったケマルは、1934年、創姓法が施行されたのを機に「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクという姓を大国民議会から贈られ、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが正式名となった。

投稿者 mtcambrs : 17:50 | コメント (0)

2009年4月20日

中川嘉夫のカメラ紀行 トルコ編 1_1 トルコはアジア? ヨーロッパ?

09年3月14日~26日の13日間、トルコへ行ってきました。
私にとってトルコは極めて謎に満ちた国です。
・トルコはアジアかヨーロッパか?
・首都はイスタンブールではなく何故アンカラなのか?
・トルコでは何故ブタをたべないのか?
・・・・・・・・・・
カッパドキアやパムッカレなどカメラの被写体として魅力的な世界遺産があるという事以外は全く未知の国でした。
13日間(現地10泊11日)の旅で少しは謎が解けたような気がします。見たまま聞いたままのトルコを
第一章 トルコという国
第二章 ファインダーから覗いたトルコ
として連載します。


第一章 トルコという国

1.トルコはアジア? ヨーロッパ? 
トルコについて語るときいつも疑問に思うのは、この国はアジアなのか、ヨーロッパなのかということだ。
トルコ共和国は西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国だ。
北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシアと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する、文字通り東西の十字路である。
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 国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の約99%がイスラム教を信仰する。そのため、日本の地域区分では地理的な位置と、ヨーロッパ即ちキリスト教という既成概念から中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、経済的、政治的にはヨーロッパの一員として扱われることがあり、現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。


1923年、オスマン帝国にとって代わって、共和国を築いたムスタファ・ケマル・アタテュルクは、1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもイスラムと結びつきやすいアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化のすべての面で大胆な欧化政策を断行した。
 
 国民の私生活のヨーロッパ化も進められ、宗教的とみなされていた男性のターバンやトルコ帽は着用を禁止され、女性のヴェール着用も、極めて好ましくないものとされた 。
しかし、実際にこの国の人達を見ると、帽子をかぶった男性や、ヴェールを着用した女性も多い。
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 いまだ、イスラム教徒が99%を占めるという現実は、ケマル・アタテュルクが意図したほどには、この国のヨーロッパ化はすすまなかったようだ。

また、人々の顔立ちは我々日本人とは明らかに異なるが、かといってヨーロッパ人とも言えない。
 首都アンカラの古城近くでみかけたナッツ屋さんの老人はアラブ系の血の混ざったヨーロッパ人といった独特の風貌だった。
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投稿者 mtcambrs : 17:56 | コメント (1)